【旅】奈良の金魚の町にある「大和郡山城」

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大和郡山市には、筒井順慶豊臣秀長ゆかりの社寺をはじめ、縄文から弥生時代にかけての遺跡、大和朝廷が成立したとされる4世紀頃の古墳、平城京の一部であった羅城門遺跡など数々の遺跡が残されています。

近鉄の大和郡山駅から歩いて数分、途中郡山高校の野球グランドで練習試合を観戦しつつ、坂を登りながらお濠が見えてきました。立派な石垣です。

筒井順慶の時代

周辺の村々の地侍を次々と支配下に置いて大和を統一したのが筒井順慶です。順慶は織田信長を後ろ盾として天正四年(1576年)に大和支配を成し遂げ、天正八年(1580年)に郡山に入城しました。もともと市場が形成されていた郡山にさらなる繁栄をもたらしました。

筒井順慶は天正十年(1582年)に本能寺の変が起こり、明智光秀に出兵を促されますが日和見を決め込みます。これを「洞ヶ峠をきめこむ」といい、旗色の良い方につくという悪い意味での言葉として残ってしまいました。

豊臣秀長の時代

秀吉の弟である豊臣秀長は、筒井家の後、天正十三年(1585年)郡山城に入城しました。秀長は、大和・和泉・紀伊の三国、百万石を領有しています。

秀長の入城後、郡山は政治的、経済的に大きな意義をもつようになります。城郭を構築して新しい自治制度を始めました。そして奈良での商売を一切禁止し、近隣の町からも商人・職人を呼び寄せるなどして商業を郡山へ集積させました。様々な大事業を成し遂げたものの、秀長は51歳で死去しました。在任期間は6年余りという短い期間でした。

柳沢家の時代

豊臣秀長の没後は、水野勝成や松平忠明、本多正勝など領主が目まぐるしく変わります。そして江戸時代に活躍したのは柳沢吉里です。吉里は、宝永六年(1709年)甲斐守として甲斐城主となり、その後将軍吉宗の命を受け、大和、近江、河内、伊勢の四カ国を領します。そして享保九年(1724)、郡山に入城し郡山城主柳沢家初代となりました。

吉里は、郡山で養蚕を奨励して経済を振興させたと共に、趣味で飼っていた金魚も運んで、この地での金魚養殖が始められるようになりました。そして現在、大和郡山の金魚養殖は日本で最大の産地として発展を遂げました。

様々な分野にわたり長じた才覚を示した柳沢吉里は、郡山を大和の国における経済・文化の中心地へと導き、柳沢家は明治維新までの147年間、六代にわたって郡山藩政を担いました。その文化と地場産業の礎は現代に受け継がれ、市民生活のなかに脈々と息づいています。

石垣にはいろいろなところから集められた石材が使われており、石仏がさかさまに組み込まれていることから「さかさ地蔵」と呼ばれているそうです。天守閣があったのかは明確ではありませんっでしたが、近年石の基礎が発見されたようです。奈良盆地の真ん中あたりなのでしょうか。周囲を見渡せる立地でとても景色が良かったです。

城内の一角に神社があります。
祀られているのは、「川越・甲府城主柳沢美濃守吉保公」と書かれていました。歴史を知らないとどこの誰?ここはどこ?となりそうです。

江戸時代に甲府から来たお殿様が、趣味で持ってきた金魚。それが大和郡山日本一の名産になるなんて、ちょっとしたロマンです。

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