【旅】岐阜県にある日本最古の木造再建のお城、郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)に登る

お蕎麦屋さんでお昼をいただこうと思ったら30分待ちと言われ、そこから郡上八幡城まで15分ということで、待ち時間に上ってみることにしました。

郡上八幡城は城主が、遠藤氏、稲葉氏、井上氏、金森氏、青山氏と5氏19代によって収められてきたお城です。

15分と言っても上り坂でなかなかの急斜面でした。
その分とっても景色がよかったです。

郡上八幡城の沿革

郡上八幡城は1221年、下総国香取郡東庄の東胤行(とうのたねゆき)が郡上東家の初代となったことに始まります。1468年に9代城主常縁(つねより)が東征の留守の間に土岐家の守護代斉藤妙椿(みょうちん)に一時所領を奪われましたが翌年所領を返しています。1532~54年に13代東常慶が東殿山城(八幡町旭)を築きました。

<戦国時代>

1557年、山内一豊の妻となる千代が、後の初代城主遠藤盛数(もりかず)の娘として生まれます。1559年、東常慶の子東常堯(つねたか)により、遠藤胤縁(たねより)が殺害されます。そして弟の遠藤盛数は弔い合戦の名目で東常慶を攻撃して滅ぼし、八幡山に城を築いて移り12代340年続いた東氏は滅びました。

遠藤盛数は郡上一円を領し、遠藤胤縁の子遠藤胤俊に木越城を継がせ、所領の半分を分け与えました。1562年、遠藤盛数が死亡してその子遠藤三郎四郎慶隆が13歳で2代目を継ぎましたが母が関城主永井隼人と再婚し、千代とともに関に移ります。のちに遠藤慶隆は織田信長配下となり姉川の合戦をはじめ各地に転戦して戦功をあげました。

1588年、遠藤慶隆は岐阜城主織田信孝に通じていたので豊臣秀吉に疎まれ加茂郡小原犬地に移されます。そして八幡城には安八郡曽根から稲葉右京亮貞通が4万石で封ぜられました。その後稲葉貞通は八幡城の大改築を行い旧態を一変させます。

1600年、今度は遠藤慶隆が家康に願い出て飛騨の金森可重の援軍を受け八幡城の稲葉通孝を攻めますが勝敗は決まらず和睦します。その後、遠藤慶隆は遊軍として関ケ原合戦に参加した後に再び八幡城主として2万7千石を領しました。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ5万石で移されます。

<江戸時代>

1646年、遠藤常友(つねとも)が3代目の城主となり八幡城の大修築をなし、近郷の寺院を城下に集め城下を拡張整備しました

1692年、5代目城主遠藤常久は7歳で死亡し、幕府の決定によって遠藤家の所領は取りつぶしとなり、常陸国笠間城主井上中務少輔正任(まさとう)が5万石で八幡城主となった。ただし遠藤慶隆の功績が認められ数馬胤親に遠藤家を継がせて常陸国(茨城県)下野国(栃木県)で1万石を与えらました。

1697年、2代城主井上正岑(まさみね)は丹波国(京都府)亀山に移され、羽州(山形県)から金森出雲守頼旹(よりとき)が3万8千石で八幡城主となりました。1736年、金森頼旹が死し、金森頼錦(よりかね)が2代目城主を継いだ。頼錦は学識があり文化的な城主であったが年貢増徴の苦肉の策が嵩じ1754年に郡上一揆が起きました。金森家は責任を問われ断絶となった。

1758年、丹後国(京都府)宮津の城主青山大和守大膳亮幸道(よしみち)が郡上へ国替を命ぜらます。1759年に青山幸道が八幡城に赴任して4万8千石の新しい統治者となりました。以来青山氏は郡上藩の領主として7代111年間続き、明治2年(1869年)、青山幸宜(ゆきよし)が版籍を朝廷に返して郡上藩知事となりました。

山間の川沿い、狭いところに家がたくさん立ち並んでいます。
郡上八幡城はこの地域を見渡すことができるとても景色の良い山城でした。

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